双極性naoの「てにをは」

双極性障害のnaoが伝える、ことばの力と闘病の記録。

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3600分の使い方。~「悪くない」を「悪くはない」に~

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、時間についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

日記と体調の変化

 

客観的に自分を見ること

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私が精神疾患を患って以降、日々の体調の変化にとても敏感になった。

それは、日々の体調を記録するための日記を書いているからかもしれないが、自身の身体への意識がそれまでに比べて高くなっていることは確かなのだろう。

 

 

「日記」というと、一日にあったことを主観的に書くことが多い。

今日はどこどこへ行って何々をし、何を感じ何を考えたか。

私もこのようなことを書いてはいるけれど、それに終始することはあまりない。

 

 

精神疾患の中でもうつ病や双極性障害は「気分障害」と分類される。

そのため、ちょっとした気分の変化も日記に書き留めるようにしている。

今この時この瞬間に、自分がどのような感情を抱いているのか。

それを記録するには、一日を主観的に振り返ってみる必要がある。

 

 

しかし、主観で日記を書いているばかりでは視野がどんどん狭くなってしまう。

目の前の大きな鏡に映る「自分」というものと向き合い、を合わせ続けることは苦痛でしかない。

そして堪らずこちらから目を逸らせてしまう。

 

 

そのため、私は客観的に「自分」というものを見るよう努めている。

主観的に見ることが難しければ、客観的に見てみようと考えた。

「客観的に」とは、私自身を斜め上の方から見下ろしているような感覚で、少し距離を置いて、どこか他人事のように「自分」を見る、というものだ。

そうすれば、自身と緩く向き合うことができるようになる。

同じ「一日を振り返る」という作業でも、主観的に見るか客観的に見るかでその苦しさは大きく異なる。

精神面で考えれば、後者の方が圧倒的に負担が軽い。

 

体調の細分化

体調を記録する、と言っても「良い」「悪い」「どちらでもない」というような、よくある3択ではなく、もっと細かく分けられている。

これは、選択肢が必ずしも3つのなかに収まるものではなく、もっと細分化できるからだ。

 

 

同じ「悪い」というなかでも、「非常に悪い」「どちらかと言えば悪い」とでは意味が違う。

それだけではなく、他にも「悪くない」「悪くはない」というものもあって、それぞれ意味合いが異なる。

「悪くはない」は、「どちらでもない」とは言えないけれど、どちらかと言えば「悪い」、また「悪くない」は、「悪い」ではないけれど、どちらかと言えば「どちらでもない」に近いもの、という微妙なニュアンスの違いがある。

こうした感情を書き留めることは、2週間に一度の診察の場で主治医に体調を伝えるときに大変役に立っている。

 

 

最近の私の体調を言い表すと、「悪くはない」というのが妥当なところだろう。

悪いけれど、そこまで悪い訳ではない。

言い換えれば、低空飛行のような状態だ。

 

 

しかし、一貫して低空飛行を続けられているか、と言えば残念ながらそうではない。

日常のちょっとしたことが原因で、機体の腹を地面に擦り付けながら飛行してしまうことがある。

 

 

例えば、些細なことで家族などから注意を受けたとき。

こちらに完全に非があったとしても、注意を受けてしまえば、気分が落ちてしまう

決して理不尽なことを言われているわけではない。

 

 

本来なら、注意を受けたことに対して「これからは気を付けよう」とか「改めよう」と思うものだろう。

ところが、この「気分障害」といわれるものは、私の行動ではなく、私そのものに対して言われているように感じてしまう

つまり、「私」という存在を全否定されているかのように感じてしまうのだ。

頭では「そうではない」と思っていても、頭のまた別の部分では存在自体を否定されているような気がして、最悪の場合「消えたい」とか「壊されたい」「遠くへ行きたい」などと考えてしまう。

そのような自責の念に駆られても、不思議と「死にたい」とは思わない。

本当に厄介で、本当に面倒な病気だ。

 

病気との葛藤

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いまは生活リズムを整え、体調を整えることを最優先にして一日一日を過ごしているけれど、いざ一日の終わりに日記を書こうとすると、毎日同じようなことばかりを書いてしまっていることに気づく。

日々の積み重ねが大事で、体調は一朝一夕にはよくならないと思ってはいても、ずっと同じ内容の日記を、ただ単に書き写しているだけのような気がしてならない。

起床時間も就寝時間も同じ、日中の過ごし方もだいたい同じ、体調もほとんど同じ。

体調が安定している、と思えればいいのだが、低空飛行が続いている状態ゆえ、いい加減もう少しは浮上したいというのが正直なところだ。

 

 

一日を振り返って日記に書こうとするけれど、いつも書くことがなくて手が止まる。

「本当に何もしていないのか?」と言われれば、決してそうではない。

家のなかでできること、つまり家事などは行っている。

しかし、それ以上に「何もできていないのではないか」という気持ちの方が大きく、嫌気が差す。

 

 

「自分は何も生産活動をしていないではないか」「自分は家族のなかの、いや、社会のなかのお荷物でしかないのではないか」

そう考えてしまい、そのたびに歯がゆく、もどかしく、やりきれない。

そして、そんな感情に襲われるたびに、奥歯を力の限り噛み締めてやり過ごしている。

 

 

「できたことを認めませんか?」という記事を書いておきながら、本当に恥ずかしい。

 

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記事を書くことは自分自身への戒めでもあるけれど、一方で負の囁きが聞こえてくる。

「このような記事を書いておきながら、自分ができていないではないか!」「お前が人様に言えるような立場ではない!」「説得力のかけらもない!」「『手を差し伸べられるブログ』とか笑わすことを言うな!」

そんなことを考えると情けなく、地面に拳を叩きつけたくなるほど悔しくなる。

 

 

仕事などの、何らかの生産活動をしていれば、少なくとも自分の気持ちに刃物を突きつけるような真似はしないはずだ。

それは、かつて無職の期間を経て、仕事に就いたときに実感したためよくわかる。

仮に、短時間でも働くことができれば、働くことの達成感と、社会の一員として経済活動を行っている精神的充足感が得られるだろう。

働くのとそうでないのとでは、精神面において天と地ほどの違いがあるような気がする。

 

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3600分の使い方

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残念ながら、双極性障害というものに完治はない。

そのため、症状が軽減された状態が持続する「寛解」というものを目指す。

私は一体、いつになったら寛解の状態になるのだろうか。

これまでの記事で、割りと前向きなことを書いてきた「つもり」だけれど、私自身、本当はとてもネガティブで、弱いところしかない。

そして、不安で不安で仕方がない。

 

 

いまはただ、「悪くはない」ところで長期間停滞しているだけで、ひとつ上のステップに上がったという実感はもう何ヵ月もない。

それが気分障害というものなのかもしれないけれど、「もう少し良くなれば」という思いは常にある。

そのためには、いまの生活を少し変えていかなければならないのかもしれない。

 

 

「一日24時間」は、誰にでも平等にある。

そのなかでどのような時間の使い方をするのか。

 

 

1時間とまでは言わない。

5分10分でも構わない。

ほんの僅かでも、せめて何か自分の達成感充実感に繋がる時間があれば、精神面で少しはよい方向に傾くような気がする。

 

 

一日にある3600分のうちの何分かでいい。

いまのこの5分10分を有意義なものにするのか、それともただ無駄にしてしまうのか。

何に使おうと、全て自分次第だ。

 

 

いまの「悪くはない」体調なりに。

いつか「悪くない」体調にするために。

そうすれば、きっと「悪くない」毎日になるはずだ。

 

 

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