双極性naoの「てにをは」

双極性障害のnaoが伝える、ことばの力と闘病の記録。

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「したい」が「しなければ」に変わるとき。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、「したい」と「しなければ」についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

「したい」と「しなければ」

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「したい」と「しなければ」は、正反対の印象がある。

英訳すると「したい」はwant to、「しなければ」はhave toだ。

前者は自分自身からわき上がる感情後者は自分自身が何かに追われているような焦りの感情がある。

言い換えれば「やりたい」のか「やらされている」のか。

 

 

しかし、これらは全くの別物だとは言い切れない。

もちろん意味合いは異なるが、これらはきっと一直線上にあるものだろう。

 

 

したい→しよう→しなければ

 

「しなければ」のギアチェンジ

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何かひとつのことに対して、強い欲求に突き動かされるとき、「したい」という感情を抱く。

それを行っているときはとても楽しく、時間を忘れてしまったり、「もっと」と感じたりする。

あまりに楽しいが故、疲れを感じることはあまりない

 

 

いつまでも「したい」という感情が続けばよいのだが、そうすることはとても難しい

新鮮さを忘れ、日常生活に溶け込んでいくうちに、グラデーションのように次第に「しよう」と思うようになる。

このときもまだ、欲求に従って行動している。

ただ、「したい」というときほどの突き動かされる欲求ではなく、ときに時間の流れや疲れを感じることがある。

 

 

それがいつからか、「しなければ」という感情に変わることがある。

なかには「したい」「しよう」の段階で止まるものもあるが、気づかぬうちに「しなければ」になってしまうこともあるもので、「したい」「しよう」の延長線上にあるものだと考えられる。

 

 

「したい」「しよう」と「しなければ」との間には大きな溝がある。

「したい」「しよう」が能動的なのに対し、「しなければ」は受動的

誰かの指示を受けて行動することもあるが、誰からの指示を受けていなくても、そう感じることがあるのだ。

延長線上にあるのは前者ではなく後者で、これほど厄介なものはない。

 

 

誰からの指示も受けていないにもかかわらず、自分自身のなかで勝手に「しなければ」と感じてしまう。

それはおそらく、義務感から来るものだろう。

 

 

義務感に苛まれると、徐々に疲れを感じるようになる。

そして、その疲れは次第にストレスへと変わっていく。

しかし、強い義務感は「もっと」と要求してくる。

「もっとやりたい」ではなく、「もっとやれ」「もっとやらなければ」だ。

 

 

それは、少しずつ自分自身を苦しめ、追い込んでいく。

まるで、真綿で首を絞められるように。

とても苦しくて、とてもしんどいはずなのに、それでも過剰な義務感は自身をより追い込んでいく

 

 

追い込んで追い込んで、さらに追い込んで、真綿がピンと張られる頃には、身動きが取れなくなってしまっている。

八方塞がりの状態だ。

 

 

一度そうなってしまったら、「したい」に戻すことはとても難しい

「しなければ」に入ってしまったギアを一旦ニュートラルに戻し、「しよう」、「したい」の順にギアチェンジしていく必要がある。

「しなければ」と上塗りされた感情を、「したい」状態に戻すことは、大変な労力と時間を要するのだ。

 

 

「したい」の維持

「したい」というモチベーションを維持することもまた難しい。

 

 

仕事を例に考えるとわかりやすい。

子どものころ周りの大人から、将来何になりたいか、という質問を何度も受けた。

高校のころは、これまで夢や希望だったものが、就きたい仕事として抽象的にイメージしていた。

その後進学して就職活動を進めていると、考え方が次第に具体的になり、就きたい仕事から就ける仕事にシフトした。

無事に就職し、実際に働くようになると「働かなければ」という感情に変わったのだ。

 

 

その根幹にはきっと、生計を立てるため、という現実的な目的があったからだが、高校のころと比べると、その違いに愕然としてしまう。

「したい」がいつからか「しなければ」に上書きされてしまったのだ。

 

 

プロ野球選手も同じことが言えそうだ。

多くの選手は、幼少のころに野球というスポーツに興味を持ち、好きで始めたことだろう。

プロ野球選手になるためには、春や夏の甲子園大会に出場して好成績を残すことが最短ルートで、それだけ各方面での注目度も高い。

そして、高校か大学を卒業後、晴れてプロ野球選手となる。

 

 

おそらく、学生時代には「プロ野球選手になりたい」と思っていた球児も多かろう。

しかし、ひとたびプロの世界に飛び込めば、常に個人の成績がつきまとう。

そして、次第に「成績を残さなければ」という感情に変わる。

「したい」から始まった野球というスポーツが、「しなければ」に変わるのだ。

全選手が多かれ少なかれそう感じているはずで、個人の成績を全く意識しない選手はいないだろう。

 

 

どんなに活躍した選手でも、引退したあとに「こんなに野球を楽しいと思えたのは小学生のとき以来だ」と言う発言をすることがあるのだ。

どんな仕事も、賃金をもらう以上はその道のプロであり、「いつも楽しくて仕方がない」という仕事は存在しないだろう。

 

 

「しなければ」に侵食されつつある状況下において、「したい」というモチベーションを維持することは並大抵のことではない。

 

 

私の場合も例外ではない。

仕事中、常に「しなければ」に支配され、限界に達してしまった。

渦中にいると全くわからないが、倒れてしまってからでは遅すぎる。

そもそも働き方に問題があったのか、はたまた学習能力が低いだけなのか、恥ずかしながら倒れたのは一度や二度ではない。

 

 

「しなければ」と思うことは致し方ないが、「もっと」という言葉がよぎった時点で一度立ち止まってみる必要があるのかもしれない。

 

 

「記事を書く」ということ

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今、こうしてブログの記事を書いているが、毎日何かしらの記事を書いていると、つい無理をしている自分に気づくことがある。

そして、記事を「書かなければ」と思ってしまっている自分に嫌気が差すこともある。

 

 

開設の目的

私は過去に、ある方のブログに救われた経験がある。

生の声を伝えられるブログに魅力を感じ、当ブログの開設に至った。

具体的には、「私が経験したことを誰かに伝えたい」「その誰かひとりにでも深く突き刺さる、印象に残るような記事を書きたい」「そっと手を差し伸べられるような場所にしたい」という、3つの「したい」動機がある。

 

<関連記事> 

www.nao-mizutama.com

 

 

しかし、それはあくまでも表向きに過ぎない。

「3つの『したい』が全てだ」と胸を張って言えるほど、私は強くない。

本来は、「体調を安定させるため」「脳を程よく働かせるため」「内面に燻っているモヤモヤした思考を吐き出すため」という3つの目的がある。

 

 

開設したブログは、はじめのうちこそ「したい」という感情のもとで記事を書いていた。

しかし、いつからか「しよう」に変わってしまった。

ときには体調が芳しくなく、書くことが難しい日もある。

けれど、無理やり記事を書こうとしている私がいて、そのたびに「何をやっているのだろうか」「無理をしてしまっては本末転倒ではないか」と落胆してしまう。

いつの間にか「しなければ」という感情に支配されてしまっている。

「したい」という能動的な感情は、いつからか「しなければ」という受動的な感情にすり替えられてしまっているのだ。

 

 

生きた記事と死んだ記事

記事の更新も連続80日を超え、訳のわからぬ意地や強迫観念にも似た感情によって「書かされている」部分もある。

しかし、「書かなければ」「書け」という感情のなかで記事を書いたところで、自分が納得のいく記事が書けるはずはない

私が納得しようがしまいが、結局のところは読者の方によってよい記事か否かが判断されるのだが、自身が納得した記事には多少の反響をいただくことがある。

 

 

納得する記事とそうでない記事との間には決定的な違いがある。

これは後日、記事を読み直してみてもすぐにわかる。

それは、記事が呼吸をしているかどうかだ。

納得する記事には気持ちがこもり、思いがこもる。

そして、がこもる。

言葉に力が宿り、熱を帯びて読者の方へ届くのだ。

 

 

そうでない記事にはそれが感じられない。

一見、同じ1つの記事のようにも見えるが、それはただ文字を羅列しただけに過ぎない。

「しなければ」に支配されているときは、やっつけ仕事になってしまい、文章自体が死んでいる

しかし、一方では「1つ記事を書いた」と自己満足に浸っている自分もいるのだ。

 

 

そんな記事を量産したところで、誰かに手を差し伸べられるブログになるはずがないし、何より大切な時間を割いてまで、このような長文ばかりのブログを読んでくださる読者の方に申し訳ない

 

 

駄作を連発するよりも、ひとつの傑作を生み出した方がいいに決まっている。

それがこのブログの方向性ではないのか?

いったい、誰に何を伝えたいのか?

目的を見失っては呼吸をする記事は書けない。

本当に伝えたいのなら、生きたブログにする必要がある。

しかし、現状はそれとはほど遠いではないか!

しっかりしろ!

 

 

「したい」と思って始めたブログが、「しなければ」になってしまっている。

そこに入ったギアを「したい」に戻すには時間がかかる。

そのために、まずはニュートラルに戻そうか。

原点の「したい」に戻るのは、それからでいいだろう。

 

 

読者の方の時間を割いていただくのに相応しい記事を書こう。

もう、毎日無理して更新する必要はない。

一度、立ち止まってみよう。

 

 

「したい」でなくてもいい。

せめて「しよう」になるまで待て。

そのときは、きっと伝わる記事が書けるだろう。

生の声が伝えられるだろう。

熱を帯びて相手に届く、生きた記事が。

 

 

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