双極性naoの「てにをは」

双極性障害のnaoが伝える、ことばの力と闘病の記録。

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学校というプレス工場~私たちはこうして社会に投げ出される~

 みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、日本の教育についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

  

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日本の教育

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日本の教育現場は先進諸国と比べて遅れていると、よく耳にします。

日本には日本人に合った教育方法や国民性があるため、他の国と比べてどうこうというつもりはありませんが、同じ日本人から見ても危機感を感じてしまうことは多々あります。

それは私自身が学校教育を終えて、少し離れたところからそれを見ているから感じることなのかもしれません。

 

カリキュラムや指導要領などの学問的な教育については横に置いておいて、それ以外の面、つまりハード面ではなくソフト面について考えることがあるのです。

具体的に、大きなことを例を挙げれば、教員の体罰やいじめの組織的隠蔽などがあります。

あろうことか、教員が特定の生徒に厳しく接したり、当たったりしているケースもあるのです。

 

近年、体罰やいじめの問題に世間は敏感に反応し、証拠の動画や音声がSNSなどで拡散されれば、たちまち大きなニュースとなって世の中に知れ渡ります。

それに、保護者からの目も厳しくなっているのは言うまでもありません。

 

例えば、携帯電話が普及し始めた20年ほど前なら、体罰やいじめの問題があったとしても、それが明るみに出ることはなかったのかもしれません。

あったとしても、被害を受けていた生徒が自殺をするなど、大きな問題のときだけ。

一見、ここ数年で増加したように見えるけれど、ただ表面化しただけで、その本質は今も昔もきっとそう変わらないでしょう。

 

教育の歪み

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私が学生という立場ではなくなって、もう何年も経ちました。

「学生ではない」という、離れた場所から日本の教育を見ていると、いろいろなことが見えてきます。

それはきっと、「学生」という、教育現場の渦中にいたのでは決して気づかないことだったでしょう。

 

「いろいろなことが見える」とお伝えしましたが、それはつまり歪みです。

私は、教育のソフト面において、次の3つの歪みがあると考えます。

  1. 「目まぐるしく変わる社会」と、「停滞する教育現場」との違いが生む歪み
  2. 「社会の常識」と「教育現場の常識」との違いが生む歪み
  3. 「教員の仕事量」と「頭数」の違いが生む歪み

 

1と2は繋がっていて、学校は時代の変化に柔軟に対応できていない、と考えるのです。

言い換えれば、「鈍い」この一言に尽きる。

防犯上、仕方のないことかもしれないが、学校関係者以外は敷地内に立ち入ることはできません。

外部からみれば、完全な閉塞的空間で、敷地内で一体何が行われているのかわからないという、いわゆる「ブラックボックス」になっているのです。

 

最近では、学校と道路を隔てる壁を防犯上高くしているところもあります。

そうなれば、ますます中で何が起きているのかがわからなくなります。

ということはつまり、中でどんなことをしていても外部にはわからないのです。

もし、体罰やいじめという問題が起きたとしても、学校関係者が口裏を合わせて「そのような事実はない」と言ってしまえば簡単に隠蔽できるのです。

こうしたことは、学校が一方的に、地域住民をシャットアウトしているように思えてなりません。

 

3についての問題も深刻です。

一人の教員に対しての仕事量は、おそらく私たちの想像を遥かに超えるほど多いでしょう。

授業の準備をし、授業をし、クラスの問題にも対応し、部活動の練習や試合を引率する。

試験問題を作成・採点し、三者面談や通知表の作成、学校行事。

その他にも教員会議や研修などもあるでしょう。

 

もっと他にもあるとは思いますが、これほどまでもの業務を一人で行おうと思うと、あまりにも激務だということがすぐにわかります。

生徒の問題にも対処していると、どうしても他の業務が後手後手に回ってしまう。

 

心身のストレスは図り知れません。

それだけの業務を一人で担うには、どうしても表面上の対応しかできないのかもしれません。

だからといって生徒に暴力を振るったり、いじめを放置したりすることは許されることではありません。

教員はそのようなジレンマに日々悩まされているのかもしれません。

  

校則の押し付け

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私たちはみな、9年間の義務教育を受けています。

幼稚園・保育園、高校、大学にも通えば20年弱もの長い間、教育現場に身を置くことになります。

いずれも、私たちは集団の中で学んでいくのです。

 

もちろん学習面だけではなく、同時に規律性や適応性も学びます。

自主的に学んでいければよいのですが、残念ながらそうでない場合もあります。

いわゆる、押し付けです。

 

「校則」という正義を盾に、違反している生徒に指導を行う。

学校で集団生活を送る以上、校則そのものがいけないというわけではないし、生徒に指導すること自体も悪いことだとは思いません。

私が問題と考えるのは、ストライクゾーンの狭さ校則の柔軟性のなさです。

 

ストライクゾーンとは、校則で定められた生徒像のことで、これがあまりにも狭いのです。

例えば、「男子生徒は髪の毛が耳にかかってはいけない」、「女子生徒のスカート丈は膝上10cmまで」、「女子生徒の髪どめのゴムは黒か茶」、「カーディガンは指定のもの以外は着用不可」などなど。

これらに少しでも違反すると、指導の対象になってしまうのです。

こうした身なりに関する校則は、細かい部分にまで言及しているものが多く、「生徒はこうあるべき」というイメージを勝手に生徒に押し付けているように思えてなりません。

そして、「こうして個性が失われていくのか…」とも思うのです。

 

例えば、「髪の毛が黒色でない生徒はNG」と校則で定められている場合、そうでない生徒は指導の対象になります。

また、「女子生徒は決められた制服を着用しなければならない」という場合も、そうでない生徒は指導の対象になります。

 

私は、そういった校則があるのは問題とは考えていません。

問題なのは、柔軟性がないことです。

「規則に反しているから」と、髪の毛が生まれながらにして茶色い生徒に黒染めを強要する。

以前、交通事故でふくらはぎに大きな傷跡が残っているという女子生徒にスカートの着用を強要する。

このように、「校則」という教員にとっての絶対的正義を、問答無用に生徒に押し付ける、といった事例が数多く起きています。

 

「おとなたち」のものさしを生徒にあてることによって、傷つき、楽しいはずの学校生活を反故(ほご)にされる生徒もいるのだと強く訴えたいです。

 

<参考記事> 

こちらのブログでは、実例が紹介されています。

不登校・退学になったケースや、裁判にまで発展したケースもあるようです。

www.neverland.cafe

 

出る杭は打たれる

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みんなと同じような格好をし、みんなと同じように振るまい、みんなと同じように過ごす。

こうして私たちは、長い年月をかけて日本の教育の色に染められるのです。

 

みんなが同じようにしているときに、みんなと違うことをすれば、とても目立つ。

目立てば、「おとなたち」から注意をうける。

だから、私たちは注意を受けないようにしようとする。

だから、私たちはみんなと同じようにする。

同じようにすれば、注意を受けない。

 

これは、背格好だけのことだけではありません。

年齢不相応の秀でた才能にも当てはまります。

 

かつて放送された公共広告機構のCMで、とても印象深いものがありました。

学校の授業で「好きな絵を描いてください」と先生が言います。

ある男の子が画用紙いっぱいにクレヨンで真っ黒に塗りました。

他の児童らがお互いに絵を見せあっている中でも、その男の子は何枚もの画用紙をクレヨンで真っ黒に塗っていきます。

心配した先生は、その子のお母さんに相談します。

家に帰っても男の子は画用紙を真っ黒に塗っていきます。

お母さんは、その子を病院にも連れていきますが、男の子は手を止めることなく、何十枚、何百枚と画用紙を真っ黒に塗っていきます。

あるとき「おとなたち」は気づくのです。

何百枚もの真っ黒い画用紙が一枚の絵になることに。

その絵は、体育館いっぱいになるほどの大きさ。

最終的には、1体の大きなくじらの絵が完成するのです。

CMの最後に、「子供から、想像力を奪わないでください。」とメッセージが表示されます。

 

www.youtube.com

 

このように、「おとなたち」は身なりだけでなく、個性や可能性までもその基準に当てはめようとし、「こうあるべき」とか「こうしてはいけない」、「そうでなければおかしい」という風潮が根強く残っています。

 

私たちは長い間、教育という場で「型通り」の人間に成型されて、社会に出ていくのです。

社会に出るとき、つまり入社式では、みな同じようなリクルートスーツを着て、同じような髪型をし、同じように前を向いて座っている。

私も以前は、あのような場にいたのですが、特に違和感はありませんでした。

むしろ、「みんなと同じだから安心」と思っていました。

 

しかし、それから何年も経って、ニュース映像で内定式や入社式の様子を見ると、なんだかとても不気味に思えてならないのです。

型通りの教育の集大成のように思えてしまうのです。

 

校則や、おとなたちの「こうあってほしい」というものも大事ですが、もう少し柔軟に対応して、生徒たちの個性を認めていってほしいものです。

 

<関連記事> 

www.nao-mizutama.com

 

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記事を紹介させていただいた、シンジさま、このたびは考える機会を与えていただき、ありがとうございます。

もし、事実や解釈が異なることがあれば、お知らせいただければ幸いです。

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